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いのち

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シバちゃんの彫刻が完成したので、私の生まれ育った尼崎の中公園で撮影をしてきました。
中公園、ちいさい頃は、ここが宇宙のすべてのように広く不思議に満ちた場所でした。
クスノキに登って黒い実をつんだり、コブラを探したり(いません)
テッカテカの泥ボールをつくって投げて遊んだり、
ツツジの花の蜜を吸ったり、
何だかわからない紫の実を食べて、家に帰ったら図鑑で毒の実らしきものと判明し、なぜか母親に毒消しに牛乳を飲まされたり。
そんな野生育ちの私は、おままごとでもいつも犬か猫の役で、
終始この公園で、「ワン、ワン!」と吠え、「ニャー、ニャー!」と鳴いていました。

あれから25年。
四半世紀が過ぎて、公園で遊ぶひとは減り、中公園は何もない誰も来ない公園になりました。
3つ子の魂100までとはほんとうで、
今でも犬やクスノキや猫とまつわる仕事をして暮らしています。
ケモノのような性格だったので、
たくさんのひとに心配をかけ、たくさんのひとが涙を流して、私は育てられて来たのでしょう。

わたしは大学3年生の時に犬を飼い始め(黒柴 月君)子育て同様に涙を流しながら懸命に育ててきました。くる日もくる日も大学に一緒に通い、たくさんのきおくを共有しました。
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不思議な感覚になったのは、
いっしょにいると、「犬 対 人」という感覚がなくなってくるということです。
そのほかのあらゆる動物たちも虫も木々も同じです。
「人 対 動物」 「人 対 木」 でもなく、「いのち 対 いのち」であるということ。
「個 対 個」という感覚に近いです。

人であることを忘れて、ひとつのいのちが、ひとつのいのちと、真摯にむかいあっている。
そういう時間を作れたら、
目の前にいる犬は、犬ではなく、たったひとりの生きている友人。
目の前にある木は、木ではなく、たったひとりの相棒。
ことばは人が作ったものなので、種類や既成概念でものごとを判断することがなくなれば、
目の前にいるのは、無量大数のいのち。
そのなかで、このいのちと、このいのちが、
ひとつのいのちを分かち合っている。
そんな運命的な出会いを、今はいちばん大切にしたいと思っています。

自分が生きることで、誰かのとくべつな存在になって行く。
いきものを育てたり飼ったり、誰かと暮らしたり、ともだちになったり。
とくべつな自分のいのちをもっと宝物にしなきゃいけない。
自分のためにだけじゃなく、だれかのためにも。
そんな風に思っています。
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明日から一ヶ月、アラブのアブダビというところに、動物たちの絵を描きにいってきます。

いのちといのちの対話がちゃんとできたら、きっといいデッサンができる。
私が人であることをひけらかすと、動物たちはこころを開いてくれないでしょう。
まずは、目の前のいのちに、じぶんのいのちを認めてもらう。
そこから始められたらいいなと思います。
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パパがお守りにたくさんの絵を描いてくれました。
黒いトリは、相当な厄よけになりそうな予感です。
宇宙人みたいないぬも混ざっていますが、
砂漠のまんなかで、
星の王子様みたいに、
宇宙と動物たちと語り合って、ともだちをたくさん作って来れたらいいなと思っています。
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by m_kirin30 | 2010-11-06 17:24 | 日常 | Trackback | Comments(2)
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Commented by cutejunko at 2010-11-06 18:18
最近は大切ないのちが人間によって無残にも奪われています。
動物だったり、自然であったり、何にも悪いことしてないのに
人間によってヒドイ目に合ってしまって。。
そんなニュースを聞くたびに本当に心が痛みます。
誰も傷つかなくて、みんなが仲良く共存できる日がくるのかな。。。
Commented by m_kirin30 at 2010-11-06 21:51
cutejunko様:きっと、人がもうすこし裕福さを捨てて、ナチュラルに生きて行けば、すべては解決しないけど、すこしは良くなる、それがたくさんの人だったら、だいぶ良くなる、そんなふうに思います。
お庭で野菜を育てたり、生き物たちを大切にしたり、食べ物に感謝したり、そういうことでも充分共存して行く一歩ずつですよね!
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